仮面講座9


  1. 1. 中村正義の面話

中村正義という、豊橋生まれの画家がいる。7年ほど前、ある美術館で日本のいろんな画家の肖像画を集めた展覧会を見ていた時、自由奔放なタッチで描く中村正義の自画像のすごい迫力に目を奪われた。ピカソ以上に大胆なタッチで妖怪のような自分の顔を原色で描いていた。その時の展覧会では一番印象に残った作品であり、その時初めて中村正義という画家がいることを知った。その後、豊橋市立美術館に行ったとき、この中村正義の「創造は醜なり」という著書を受付で売っていたので、それを買い求めて読んだ。現在の画壇を痛烈に批判し、自分自身は売れるような絵は一切描かず、自分の気持ちの赴く様に自画像を何十枚も描き続けてきた画家である。その著書に「顔」というエッセィがあり、そこにはずっと昔に描いた自画像を取り出してきて、描き直すことがよくあり、それを「この作品群とのかかわりあいは、私と、絵の中にいる私との長い面話のうちにある。つきることのないこの絵との会話は私一人にしか通用しない会話なのである、」と述べている。



  1. 2. 乾武俊の「語る仮面」

15年ほど前になるだろうか、私は乾武俊(以下敬省略)のHPを見ていて、寝室に掛けている仮面が乾武俊に語りかけてくるという一文を読み、非常に驚いたことがあった。この仮面は、乾武俊が最初に手に入れた仮面であり、非常にその魅力に惹かれ、寝所に掛けて大切にしていた仮面である。この仮面の入手が契機となって、次第に民間仮面研究にのめりこんでいくことにもなったようである。このことは、HPの『境界の美』に書かれている。この仮面が語りかけてくる時間帯や会話の内容まで書かれていて、私は前節に書いた中村正義の時のように、この一節も新鮮な驚きで読んだ。仮面によっては、ただ壁に掛けているだけでも、生き物のようにその仮面を愛する人に語りかけ迫ってくるものなのか、と感じたわけである。造形芸術作品においては、画家や鑑賞する人がその作品に対して「語りかける」という表現はよく使われるが、実際にその作品がいつどういうことをどのように語ったかということが、具体的に示されている話はほとんど聞かない。まして、それが仮面との対話でもあったから、私の関心を引いたのであろう。私は、30年以上も仮面を収集してきて、3階の私の屋根裏部屋(男の隠れ部屋ともいう)に長年仮面をかけて、時々これらを眺めてきたが、今まで一度もそのような仮面に出会ったことがなかったからでもある。乾武俊の感性が、鋭いということなのかもしれない。
  
  

  1. 3. わが仮面との対話
   

いや本当は、仮面とこのように対話できることがあるのだということにずっと気付かなかったのかもしれない。民俗仮面を楽しむのに、民俗学という立場からではなく、誰にでもできるおもしろい見方や接し方はないものかと常々思いめぐらしてきた私にとっては、前述した2者の話はまさに新鮮な提示であった。また、私はそこに仮面への新しい視点のひとつを教えられたと思った。見て涙があふれる芸術作品にはいまだ出会わないが、驚くべきことに語る仮面には出会うことができたのである。
それから何日か経って、夕食後いつものようにわが隠れ部屋へ入り机の前に座って、何気なくたくさんの仮面の掛けてある壁の方に目を向けた時、自分に語りかけてくる仮面があることに気付いた。その仮面が上の写真に示した仮面(左側)である。たまたま、その仮面のかかっている位置や、座ってみた角度がよかったからかもしれないが、その仮面がすっと話しかけてきた。
  ― 今日はどうした。何か楽しいことがあったのか ?
という具合である。
この仮面は、20年くらい前に名古屋の骨董市で、ネパール人が開いている店で買った、木彫りの黒色の仮面である。縦の長さが29㎝ 横が23㎝と少し大振りである。口の形が少し話しかけてくるように見える。それからは、この仮面とよく語り合うようになった。よく考えてみると、その仮面はずっと前からそこに掛かっていたのであるから、ずっと語りかけてくれていたのかもしれないのである。しかし自分がそういう心を持たなかったために、全くそのことに気付かなかったのであろう。
 今、ガラクタばかりではあるが、200以上の民俗仮面がある。叫んでいる仮面や微笑みかけてくる仮面やムムッーと唸っている仮面やウオーと叫んでいる仮面など、いろいろな表情の仮面がある。ただ、自分に静かに語りかけてくる仮面は他になかなか見つからないが、仮面を並び替えていると、ちらほらそういう仮面に出くわすものでもある。もちろん、そういう仮面をある角度から見たとき、と言った方が正確だともいえるが。右側の日本の民間の翁面(宿神)はその一つである。この仮面は、切顎で、もともと話す形式になっている。いつも「もっとニコニコしろ!」とおっしゃる。いずれはそれらの中から、他に面話できる仮面が出てくるのではないかと楽しみに待っている。
 好きな仮面を自分の部屋に飾り、時々その仮面に今日あったことを話しかけるだけでも、(特に仮面の方から話しかけてこなくても)、民俗仮面をもつことの楽しみが味わえる。子どもは、お祭りの時に神社の境内の屋台で売られている、プラスチック製のカメンライダーやウルトラマンタローの仮面にそのまま素朴に惹き付けられてしまうようだが、私たちも民族仮面に対してそういう素直で無心な気持ちで接することが大切ではないだろうか。