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左側のアフリカの猿の仮面は、10年近く私の書斎の本箱の一角に別の仮面といっしょに並んでいる。壁に掛かっているのではなくスタンドに立て掛けてある。口も鼻もあまり明確な形をしてなくて、目だけが少し憂いをこめていつもじっとこちらを睨んでいる。耳が額の両端上部にべったりと丸くくっついていて、顔全体のアクセントになっている。

この仮面をスケッチしてみた。スケッチしたこの猿を見て、おやっと思った。何故か人間の形相に似ているのである。この猿は、今まさに人間に変身しようとしているのではないかと、その時私は直観したのである。私は、この猿に言った。
「おい、猿よ。おまえは人間になろうとしているのではないか。人間にならない方が良いのではないか。人間になった方が、はるかに苦しむことが多いと思うよ。」
猿は言う。
「人間は動物の中では、最も気ままに自由に生きているではないか。」
私は答えた。
「そう見えるだけだよ。人間は、自分が作り上げた政治・経済・社会・仕事・家庭・文明にがんじがらめに縛られているのだ。人間にならない方が良いよ。」
猿は、ムムッーとうなって黙した。
この猿の仮面と、そんなたわいのない、いや必死の会話になってしまった。

ここで気になることは、言うまでもなく変身の問題である。仮面ライダーで有名になったあの変身(ヘンシンV3)である。古代から、人間は天上界や奥深い山や森あるいは超自然界から舞い降りてくる変身した神に救われたい、あるいは自分自身が超能力を持った何者かに変身したいという強い願いを持ってきた。現代では、映画やテレビや漫画で、人間がさまざまな形で変身するというドラマが続々と出てくる。そういう願いをかなえるひとつの方法として、それを仮面に託し仮面を作成し仮面をかぶってきたともいえる。したがって、人間は仮面に対して特別な感情を持ち、仮面をつけると容易に変身できると思っているふしもある。ともかく、変身は仮面を語るとき、切っても切れない課題であることは確かである。

しかし、ここで取り上げたのは、すこし異なった話である。私はこの猿をみて、仮面自体が変身することに気付いたのである。類人猿は、気の遠くなるほど長い時間をかけて人間に進化してきたのに、その表情からみてあるいはその目の鋭さから見て、この猿は短時間で進化しようとしているように見えたのである。まさに変身である。

もう一つ、私のコレクションしている仮面を示して、この変身を考えてみたい、もう一つの右側にあるアジアの猿の仮面は、顔の上半分は人間そのものである。しかし顔の下半分はまだ猿である。この猿は顔の上から下に向かって少しずつ変化しているように見える。厳しい表情はしていないが、一応変身プロセスにはいっているのではないかと思われる。

もし猿の面をつけた人間は、その人間そのものが猿になるだけでなく、そのつけている仮面そのものも生きた猿に変身しているのではないかと、考える時がある。その猿の仮面は、まだそれを演者がつけずに、他の仮面といっしょに床の上や台の上に並べられているときは、何の変哲もない猿の面であったとしても、その面をつけた演者が猿を演じたときから、それを見ている観衆は、その演者も仮面もともに生きた猿に変身したと感じる。要するに、変身は、この場合、人間だけでなく仮面自体にも生じているという、二重の変身という構造になっているのである。まさに、仮面と演者とは一体となっているのである。仮面自身が変身しても何もおかしくないのである。

これは、私の仮面に対する素朴な見方にすぎないが、民俗学的・文化人類学的に何の手がかりもないときでも、このように仮面を観察し少し仮面と向き合うことによって、仮面を楽しむことができることを示したつもりである。講座1はこれで終わる。